おじいさんの手

おじいさんの手
(祖父の好きだったサギ草。三蔵珈琲店で)

わたしの父方の祖父は、第二次大戦で、傷痍(しょうい)軍人となり、
左手中指が曲がったままでした。

戦地で手の甲に銃弾が当たり、指を伸ばすための腱が断裂したそうです。

わたしが幼い頃には、もう痛くもなんともない、とぷらんぷらんの指を
弾(はじ)いて、そう言っていました。

祖父から聞く戦争体験は、いつも部活動の思い出のようで、
若かった祖父の負けず嫌いな性格や、やるならなんでも楽しく、
という気持ち、自分だけがいい想いをするのは嫌いな人柄がわかる
ものでした。


祖父は、通信兵だったそうです。
本隊と支部隊(という言い方が正しいかわかりませんが)が連絡を
とるのに、戦場での簡易電話を引く仕事でした。

電話線は、長いものが巻き取ってあって、ひとつが重さ何キロも
あったそうです。それを距離に応じていくつか担ぎ、支部隊のから、
本隊まで繋ぎます。


戦火の中、重いケーブルを担いで、昼夜を徹して歩き通すと、
休憩の時に後ろ向きに座ってはいけない、と知ったと言います。
「なんで?」と聞くと、しゃがんだ瞬間眠りに落ちる、次に出発の
号令がかかると、立ち上がってそのまま朦朧とした意識の中で歩き
出すため、後ろ向きに座った者は、皆と逆に歩き出す。
皆自分が限界だから、だれも注意などしないそうです。
それではぐれた人もいたとか。


支那にいたと言う祖父に、現地の人を殺さなくてはいけない場面が
あったか、と聞いたことがあります。

大抵は、日本軍が入ってくると逃げてしまうため、そんな必要は
ほとんどなかった、と。ただ、戦争に関係無い人たちが、死んで
いくのも見たよ、と言っていました。
それ以上は聞けなかった。

支那では、ご飯時に民家へ乗り込むと、できたての食事にありつけた
から、それは有難かった、と話していました。

一度、逃げ遅れた小さい女の子を崖の下から上へ逃がした、という話
も聞きました。
女の子のお母さんが、 泣きながら崖の上から呼んでいた。
その子をお母さんへ抱き上げて渡したそうです。
本隊と離れて通信兵部隊だけが動いていた時だったから、
できたのだよ、と。



軍隊というのは、成績がいいと階級が上がり、頭だけでもだめで、
実技が伴わないといけなかったそうです。
訓練中も同じことだとか。
階級が上がれば、風呂に入っても、洗い場で座って両腕を伸ばして
いれば、「さあっと洗ってくれた」んだそう。

軍隊というとこは、下にいればまさに地獄で、早く上に上がらないと
参ってしまう、と死に物狂いでいろんなことを練習した、と
言ってました。



あるとき、戦地で、臨時にお金が手に入ったことがあったそうです。
小隊長だった祖父は、部下に饅頭を買ってこい、と命じ、
みんなで分けて食べてしまったんだそうです。

あとで、上長が「財布を無くしたが知らないか」と言われて、
はっとしたが知らない、とシラを切り通した。

隊みんなで知らん顔したため、バレなかったが、あの財布を一人で
隠匿していたら、どうなってたかわからんな、と。
俺は、自分だけいい思いをするのは嫌だった、あの饅頭はうまかった
なぁ、と言っていました。



祖父は、終戦少し前に怪我のため帰ってきていますが、
戦地での怪我の治療は環境が悪く、治る者も治らん、と。
自分は運がよかった、とぷらんぷらんの中指を親指で弾きながら
話してくれました。
こんなになったが、手が残ったで、な、と。


祖父は、15年ほど前に胃癌で亡くなりました。
入院中も、泣き言ひとつ言わず、常に前向きに治療に専念していた
祖父。
軍隊のことを思えば、なんでもない、とよく言っていました。


わたしが祖父から聞いた戦争体験の一部です。
もう、だいぶ忘れかけています。
終戦記念日が近づいて、ふと思い出し、綴っておこうと思ったのでした。




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