自分を助ける、ってどういうことなのかがよくわからなかったのですが、このごろひらめいたので、自分のために記しておきます。
今日のわたしがあるのは、昨日までのわたしのおかげ。
自分ががんばってきたことや、やってきたことを、今日のわたしがないがしろにしてはいけない。
昨夜、洗い物をした。翌朝のわたしが、朝食の準備の前に乾いた食器を片付けなかった。料理中に使った水で、昨日のわたしの仕事が台無しになってしまった。
今日のわたしの仕事も増えてしまう。
今日、ちょっとした間違いに気づいて、未来のわたしを助けた。
数日前に書いた書類の間違いに、今日のわたしが気づいた。よく確認して、直した。その書類を使う日のわたしが助けられた。
わたしが今いる家、会社は、昨日までのその歴史があり、今日からの未来がある。
わたしがそこに請われて存在しているのだから、その繁栄に大いに協力すべきである。
自分の一挙手一投足が、わたし個人の問題ではなくなる。繁栄に協力できれば、恩恵にも与れる。
5分でできる仕事を、4分で片付けようとしてミスをするよりも、6分かかっても丁寧にすることが、自分自身や所属する場所に対しての敬意を払うことになる、とわかった。
「はい!できました!!」とだれよりも早く言うことが大事だと思っていた自分は、自分のことしか考えていなかった。丁寧に間違いなく、適度なスピードで行うことのほうが、よほど価値があると理解できた。
思い返せば、小学生のころからまったく同じことの繰り返しだった。
昨日のわたしが間違ったことを、今日のわたしが見て、理解できない。どうしてそんなこと間違えたのだろう。今日のわたしが新しく知ったことをやったわけではない。昨日のわたしでも間違えずにやれるはずのことを、どうして昨日のわたしが間違えたのか、今日のわたしは理解できない。
こうに違いない、と思っているとき、過去と未来の自分に敬意がはらわれているか、その事象にかかわる人や物に対しての敬意はどうか、と考えれば、本当はどうなのだろう、と自然に受け入れることができそうだ。
自分の落とした石が、どこまで波紋を広げるのか。また、その波紋によって誰かがおぼれてしまうことはないか、今、自分が石を落としていいのか、石を落とすための池は、だれかが清めてこれから石を落とそうと準備した場所だったのではないか、など、いろいろと考えられるとわかった。
今握っている石は、いい石か。この石を落とすことは善意か。この石が広げる波紋は善意をもって広がるか。
その辺の石を見つけたからとパッと拾って、目の前に池があるからと、ボンと投げるようなことはしてはいけない。こんなこと、小学生だってわかるだろうな。昨日までのわたしはわからなかったから、今日からのわたしはよかったね。
気づくってなかなかないことです、素敵な気づきにであってこれからますます楽しみですね。
手編みのものを作っていたとき、母が「きれいにできたね、とは、ほめられるけど、何時間かかったかとは聞かないから、丁寧にしあげることだね。」と言われたことを思い出しました。
丁寧に生きることができるの幸せですね。
けいこさん
「丁寧に」は幼いころから苦手で、これからのわたしにはよい課題です。
わかる のと できる のとは違う、とつくづく思います。
自分の好きなものや好きなことを見つけるために、「いいこと日記」をつけ始めました。
3年日記にしたら、成長がわかるかなぁ。
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