映画は字幕派か、吹き替え派か[2](音に乗って来る言葉)

映画は字幕派か、吹き替え派か[2](音に乗って来る言葉)

(よかったら、前編の「映画は字幕派か、吹き替え派か[1](言葉は文化の一部)」を先にお読みください。)


でも、字幕で見る映画と、吹き替えで見る映画は、受ける印象が違うことが
あります。
これは、どうしてでしょうか。

そのわけは、「音」に秘密があります。
字幕映画と、吹き替え映画で決定的に違うのは、聞こえてくる俳優の声。

言葉は、声という「音」に乗ってわたしたちに届きます。
同じ言葉でも、乗る音の持つ雰囲気によって伝わるメッセージは変わります。
これが、「耳で聞く言葉と、目で読む言葉が違う」ということにつながります。


女「今度、食事に行きましょうか。」
男「・・・。いいね。」


映画で、このせりふがあったとしましょう。
これだけだと、男と女の気持ちは幾通りも想像ができます。
想像の中で、俳優にこのせりふを言わせてみて下さい。
二人の関係や、二人の心を表わすには、表情や声のトーンが重要だと気付かれる
と思います。

さらに、女が男を食事に誘うこと、男が即答しないこと、せりふの言葉づかいなどは、
文化を背景に、物語の理解に変化を加えます。

仮に、日本の習慣において、「女が男を食事に誘う」ということが稀有なことだとして、
こんな字幕が出てきたら、この場面の不自然さが、観客はその後も気になってしまい、
ストーリーに集中できなくなってしまうかもしれません。

字幕や、吹き替えの台本は、映画の作られた国の文化背景を理解したうえで、
配給された国でも違和感無く見られるよう製作されているのでしょう。
つまり、観客は細かいことはあまり気にせず、映画のストーリーそのものを
楽しめるよう、守られていると言えます。


さらに、人は、見た目でその人の個性を想像してしまうもの。
その人自身から発する声は、その人の個性の一部です。
字幕映画の良さは、俳優の地声がきちんと聞こえることです。
間の取り方、せりふの抑揚や声が、俳優自身のものですから、不自然さが無い。
これが、字幕で映画を見る、なによりのメリットだと思います。

吹き替え映画では、俳優自身の声は消え去り、吹き替え声優によってせりふは
語られます。
このため、わたしは、吹き替え映画の始まりには、ちょっとした違和感を
感じるときがあります。

吹き替え映画で、有名な俳優や、有名な役には、決まった声優がつくことが多い
のは、その違和感を軽減するためだと思っています。

ここでも、観客は、ストーリーに没頭できるよう、すんなり今回の物語に
入り込めるよう、守られています。

もうひとつ、声には大切な情報が乗ってきます。
それは、「感情」です。

冒頭のせりふ、楽しそうな声で発せられるのと、沈んだ声で発せられるの
とでは、想像するストーリーは全く異なります。
字幕映画を見ている観客は、外国語であっても声のトーンが乗せてくる感情の情報は
そのまま受け取っている、と言えるでしょう。


感情の情報をもっとも乗せて来るのは、ほかでもない、人の表情です。
文字だけのコミュニケーションは、音も映像も無いため、顔文字というのが
できて、あっという間に定着しました。


女「今度、食事に行きましょうか。(^o^)」
男「・・・。いいね。(^_^;)」

冒頭に想像した雰囲気と変わりましたか。



字幕で映画を見ている場合、声と表情から感情を、字幕で登場人物の考えを
読み取っています。
字幕映画の欠点は、目が映像に集中できず、字幕を読むためにほんの数秒、
映像から目を離すことになります。
このため、一瞬の表情の変化などを見落とす、ということもあるでしょう。
目が字幕と映像の処理をしている一方で、耳は、異国の言葉を発する声の情報を、
自分の文化フィルターを通して感情の情報として処理しています。

吹き替えで映画を見ている場合、目は映像に集中できます。
音の情報は耳が集中して受け取ることができます。
ただし、その音の情報の中には、吹き替え処理によって本編とは
若干変化した感情の情報が含まれてしまうことがあります。


映画を字幕で見るか、吹き替えで見るかは、どちらにも良さがあり、
欠点があります。
しかし、どちらも観客はできる限りの技術で守られていることは確かです。

言葉の違う国で製作された映画が、わが国日本では、こんなに気軽に見られる
恵まれた環境にあることを、なによりも感謝したいと思います。


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風情のない
風情のない(2008-09-23 15:45)

この記事へのコメント
あきさん、こんにちは。
映画は字幕派か吹き替え派か・・・
今回の記事に、ふ~む。と腕組をしながら向かい合っていました。

私が今回感じたことは、主旨とは違ったものかもしれませんが
結論?として読み終えた感想を書きますね。

私達がこれだけ外国映画を身近に感じ
作品を鑑賞した時に、字幕であっても吹き替えであっても
さほど違和感を感じることなく、ストーリに入り込めるのも
翻訳の方のこれまでの長い歴史の中で、
試行錯誤の繰り返しで生まれた工夫や技術、
声優さんの声を使った豊かな表現力だったり・・・
そういった私達には見えない、映画に携わる方々の
人知れない努力のおかげなのだと改めて気付かされました。

物づくりに携わるという意味では、
今回のように映像を始め、音楽、料理、車、家・・・
そしてぶん屋さんの箪笥に大切に納められた小物たち・・・
全ての分野に共通しているのは、やはり作り手さんの想いですよね。
受け取る方にとって喜びや感動となる物を作りたい。
私達の何気ない日常の中には、そんな愛情溢れる物たちが
なんてたくさんあるんだろう・・・
この事に改めて気付かされた事が、私にとって一番の感動でした。

あきさん、ありがとうございました☆
Posted by 茶坊 at 2009年04月10日 11:39
茶坊さん

(T0T)ありがとう。

わたしのつたない文章で、ここまで思いを広げてくださって、
本当にありがとうございます。

自分の手元に届くとき、どれだけの人がかかわっているかを思えば、
本物というのが見えてくると思います。

愛情込めて作られているものは、機能美を兼ね備えていたり、
無駄ができる限り省かれていたり、物が持つオーラが違います。

作る人が魂を削って、それに込めている。

それを感じるものを身近に置きたいと常々思います。
(お足が追いつかない)

人に届ける「言葉」も同じで、本物ってあると思います。
ちゃんと伝えられるよう、ちゃんと伝わっているかを感じられるような
人になっていきたいです。
Posted by ぶん屋あき at 2009年04月10日 11:46
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