映画は字幕派か、吹き替え派か[1](言葉は文化の一部)

映画は字幕派か、吹き替え派か[1](言葉は文化の一部)

映画館で公開される洋画は、字幕で訳がついているものがほとんどですが、
テレビ放映となると、吹き替えで放映されることが多いようです。

お気づきの方も多いでしょうが、映画字幕は、せりふの全部を訳して書いてある
わけではありません。
字幕は、文字制限があり、その限られた文字の中に、登場人物のせりふの言葉と、
その場面に込められた雰囲気と、ストーリーを崩さない流れを盛り込む苦労が
あるそうです。

一方、吹き替えは、せりふの言葉の訳と、登場人物の雰囲気を崩さないような
工夫が要るでしょう。
映像の人物の口の動きや表情にあわせて、吹き替えのせりふをしゃべったり、
抑揚をつけたり、という苦労があるそうです。
実際の言語のせりふと、吹き替える言語の訳とで、単語数を調整する必要も
ありそうです。

言語が異なると、表現も異なります。
言語は、人が情報を伝えるために使用する道具です。
人は文化の中に生きています。言語は、文化の一部です。

このため、言語が違えば、伝えたい内容に応じて、伝えたい相手の言語では
どう表現するのかを考える必要が出てきます。
人の行動や、気持ちを表す言葉は、文化によって使う単語が変わります。

だから、吹き替えにしても、字幕にしても、そっくり台本を翻訳すればいい
ものでもなく、英語圏だとこういう表現は、日本ではこう、と
全く違う言い方を当てはめることもあるでしょう。

困るのは、言葉はうまく交換できたとしても、言葉についてくる表情が
国によって異なる場合、映像まで差替えすることはできません。

これらの食い違いが、つまり、
「場面によっては、英文をそのまま訳すと日本人には響かないものもある。」
というところだと思います。

要するに、二つの国は文化が違うので、言葉だけが単純に訳してあるだけでは、
観客には場面の意味が理解できないという結果になります。
単語カードを裏返したら意味が書いてあるように、ぴったりとした意味の訳が
存在することはほとんどありません。

映画を見るにも、その映画のストーリー自体が持つ背景だけでなく、
作られた国の文化を理解してから見るのと、そうでないのとでは、
理解度は全く変わります。

実際は、映画が作られた国の文化まで理解してから見る、となると荷が重い。
ただし、見巧者になるためには、映画ひとつ見るのに予習をする必要が
ありそうです。
こうなると、映画は娯楽ではなく、比較文化学習の教材であると言えますね。

他にも、映画館に行かれたとき、観客におそらくアメリカ人と思われる人が
いたと想像してください。
映画の放映中、日本の観客は誰も笑っていないのに、アメリカ人がゲラゲラ
笑っているシーンがあった、なんて経験はありませんか。

アメリカの映画には、何気ない場面で布石があり、それに気づいている人だけが
後で笑える映像が用意されていることが多いのです。
少し注意していれば、同一言語文化圏の人は、必ずわかるように作られている
のですが、他言語の字幕や吹き替えの中に、この布石を再現するのは、
至難の技と言っていいでしょう。


国が違えば言葉が違い、言葉が違えば文化が違う。
これらを踏まえて考えたら、字幕でも吹き替えでも、相当の工夫がされて、
わたしたちに届いている、ということがわかります。

言葉が翻訳してあるだけでなく、違和感なくストーリを理解できるように
文化のフィルターも通してくれてあることに感謝です。


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風情のない(2008-09-23 15:45)

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映画は字幕派か、吹き替え派か[1](言葉は文化の一部)
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